フリーター時代

 パチンコ店員、保険外交員、新聞配達、ホテルのウエイター、仕出し弁当屋、カルチャー教室、パソコン教室とかをする。

1.パチンコ店員

 日立SKを辞めて自宅に帰り、真っ先に考えたのは、時間の自由が利く仕事はなんだろう。と思いパチプロになることだと思いました。笑
 パチプロになれば、自分の自由の利く範囲で稼げるのではないか?と思ったのでした。
 そこで、パチプロになるためには、まず、その裏の仕組みを知っておく必要があると思ったので、パチンコ店の店員になりました。
 家から歩いても行ける距離で、私の出身校の羽咋工業と私の家の丁度真中ぐらいのところのパチンコ店でした。1998年で私が24歳かの時です。バブルがはじける前なので、繁盛していたと思います。

 そこで、学んだのは、パチンコの業界だけで、暮らしている方々がいるってことでした。1つのお店に長続きをしないお兄さんやお父さん、ご夫婦で、住み込みで働きに来ては、数週間後とかにいなくなっちゃう人もいる業界。
 私なりに生産性のない業界だとわかったのと私自身がパチプロになっても毎日が楽しくないことに気づき、4カ月目には辞めました。

2.保険外交員

 次にしたのが、保険の外交員。
 これは、今は無き日産生命保険でした。これは、日立と日産生命がとっても深い関係があり、日立に勤務していた時に外交で来ていたおばちゃんと仲良くしていたため、私が辞めたことを知ったおばちゃんがわざわざ私に連絡をくださり、働かないかと働きかけを下さったのでした。
 それでご縁があり、半年間勤めさせていただきました。

 なんか途中から支店長候補見たいなことを言われ始めて(どれぐらい本当にそう思っていたかは今では知る由もありませんが、頑張ればそれぐらいはできると思う私もいました)、最初1か月は、ハガキをポスティングし歩いて、契約が何件か取れて、でもノルマもあるし、向いていないと感じて辞めました。でもここで営業を少しは勉強できたのかとも思います。感謝です。

3.新聞配達

 日立を辞めて、真っ先に日銭が欲しかったので、新聞配達はすぐに始めたと思います。
 小学生からずっと続けていましたので、あんまり苦にならなかったと思います。

4.ホテルのウエイター

 他に単価の高い仕事は無いかなと探していた時に見つかったのが、ホテルの派遣のアルバイト。
 時給は1100円戴いていたんじゃないかな・・・ 土日は休ませてもらった。通常はあり得ない待遇です。ただ、結婚式とか重要な時で人が必要な時は仕事はさせていただきました。なぜ、土日に休ませてもらったかと言うと同時期にカルチャー教室等の立ち上げもしていたため集客がしやすい土日はそちらの仕事をしたいとの思いがあったのでした。
 また、面白いことに平日の午前6時半~10時半までの短時間だけの仕事にもしていただきました。これは、ホテルの仕事上、夜のバーの仕事もあり、その夜の遅い仕事の人を助けると言う意味で毎日の朝番だけの仕事でも良いと言うことで楽しく仕事をさせていただきました。
 このウエイターだけで、月に15万ぐらいもらっていたと思う。仕事の時間は、午前6時半~11時半までで、昼からは、カルチャー教室とかしていました。 

5仕出し弁当屋

 途中、どうしても仕事をしてお金を稼ぎたかったので、していたのは、夜の10時ごろから、翌日の朝の5時までの仕出し弁当屋での仕事。トンカツを揚げたり、そばを焼いたり、半端ない量を作っていました。で、ここでも店長候補に考えられたみたいです。だって、段取りがすごく上手いから・・・。

6.カルチャー教室・パソコン教室

 並行して、上記の仕事をしながら、カルチャー教室を人口3万人にも満たない町で始めました。
 保険を知る講座、心理学講座(知り合った先生に頼んで)、アクセサリー教室(これもご縁のあった先生に頼んで海で拾ってきた貝殻で作る)、ワープロを10台揃えてのワープロ講座やパソコンを10台持っている会社の仕事を外注で請け負っての出張パソコン指導教室などを始めました。

 一番働いた時は、夜の8、9時~仕出し屋の仕事をし、午前5時になったら、新聞配達をし、午前6時半にホテルに入り、朝食の準備とウエイターをし、12時には家に帰ってきて、午後1時~とかのワープロ・パソコン教室での指導をこなしたのでした。この時は睡眠時間3時間で数カ月していたかもしれない・・・