和魂(わこん:一霊四魂)を元に魂の特徴を紐解きます。

会社員の頃

会社員(サラリーマン)の頃

 プロフィールは、まちゅ個人ページに加筆修正をしています。

1)高卒で日立に入る 1年目

厳密に言うと日立の子会社で、日立ソフトウエアエンジニアリング(略称:日立SK)って会社に入りました。
今では上場している会社ですが、私が入社した1983年春の時には1500人程度の若い会社でした。
が、私の入社した前後から毎年300人の新入社員を入れ始めて、仕事が山のように来る時代でした。
内容はプログラムの仕事でした。
入る時に会社と約束をしたのは、1年間だけ東京で2年目からは金沢勤務となることを条件で入社させていただきました。
その時、金沢支社ができており、その金沢支社にて働くことを前提に入社したと言うことです。
日立SKでの1年目は、とても楽しいものでした。まず、3か月の新入社員研修では同期が高卒で100人位いましたから仲良くなりました。
4カ月目には、4人のチームでプログラムを組むプロジェクトに配属され、場所が伊勢原市と言う場所でもあり、会社からアパートの貸与を受け、仕事の終わった後に4人で駅前の居酒屋に飲みに行くことも多かったです。この時に仕事を通じて深い人間関係も学んだと思います。
今思うとその時のプロジェクトリーダーは27歳でした。私は18歳で世間知らずもいい状態の私を育ててくれました。感謝しています。

2)日立2年目~金沢勤務

2年目からは北陸支店に配属となりました。毎日片道1.5時間の通勤でした。
電車に乗っている時間が1時間でした。
朝は、電車の乗り継ぎの時間の関係で定刻の30分前には着くような状態で私が一番に出勤をして、湯沸かし器を沸かしたり、新聞を読んだりしていました。
家から通うのは理由があって、父の世話をみなければいけないと言う気持ちの表れであったと思います。
ただ、通勤に時間がかかること。そして、プログラムの性質上、他の人には任せることは難しく、場合によっては毎晩終電に帰るのも当たり前と言った状態でした。
朝、7時前に自宅を出て、9時~18時まで働くが、20時半ぐらいまで仕事をして、最終電車に乗り、家に着くのは毎晩24時を超えるような状態でした。また、仕事が山場の時には徹夜もしました。また、納品には神奈川に出張もあり、3か月横浜で仕事をした時などは、昼夜が逆転の生活の時もありました。日立のコンピュータは昼より夜の方が安く借りれるので人間がそれに合わせる形で仕事をしていました。

【この時の強烈な思い出】
・高卒の給料が5千円安くてびっくり
高度成長のまだ名残がある時代だったんでしょう。大卒は優遇されていました。
私が高卒で日立に入って5年目の給料と大卒1年目の給料を比べてみてびっくりしました。
年が同じなのに、日立に貢献していない大卒の方が、私より給料が高いなんて・・・
また、高卒だと定年の最高職が課長でした。それもびっくりしました。典型的な学歴社会の中にどっぷりといました。

3)日立を辞める

日立にこのままいても社長にもなれないし、プログラムの仕事は年をとればできなくなっていく。このことから会社を辞めることにしました。ただ、辞めると言ってもそうは簡単にはいきません。プログラムは、その人の能力によって与えられるので、一旦プログラムを組み始めたら半年~1年かかります。辞めると言って認められた後、引き継ぐと言っても辛いですね。最低3カ月前に辞めると申し出ても結果的にそのプログラムが品質的に良いもので納めなかったら円満退社にならないからでした。
そこで私は、日立内の選抜試験で合格をしたら、15カ月の日立京浜工業専門学院にて学ぶことが許可され、大卒の扱いを受けることとなるので入学した。その結果、北陸支店の皆からは仕事の引き継ぎを円満に終えた状態で、入ることができ、日立京浜工業専門学院在学中に辞めた。

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