「一霊四魂」のまとまった記述は、幕末から明治の国学者・本田親徳(ほんだ ちかあつ)によってなされた。また、本田の弟子の長沢雄楯(ながさわ かつたて)の弟子であった出口王仁三郎は、人間の心だけではなく森羅万象がこの一霊四魂から成り立っていると説き、一霊四魂に関する多くの著作を残した。
 また、人間の心は根源神の分霊である「直霊」(なおひ)が「荒魂」、「和魂」、「奇魂」、「幸魂」の4つの魂を統御するという日本古来の「一霊四魂」説を体系化した。

 古代に存在したとされる帰神(人に神を降ろす法)の復元を図り、鎮魂帰神を中核とする本田霊学を確立した。その理論は出口王仁三郎が開いた大本などの神道系新宗教に影響を与えた。

 1822年1月13日、薩摩国加世田(現鹿児島県加世田市)の武士・本田主蔵の長男として生まれる。 会沢正志斎に入門し、平田篤胤などの影響を受けながら国学を学ぶかたわら、20代前半の時期に「狐憑き」の少女と出合ったとことをきっかけとして神霊の研究を始める。その教義は30代半ばに体系化されたとされている。
その内容を大別すると、
・神や霊を人に降ろす方法である「帰神法」
・帰神を実現するための精神統一の修行法である「鎮魂法」
・鎮魂で得た力の応用としての「禁厭」 からなっていた。
また、神懸かりによるお告げであっても、それを鵜呑みにするのではなく、懸かった神霊の階級や種類やを判別する「審神」(さにわ)を重視した。

参考文献:
 本田親徳の古神道
 古神道の一霊四魂と天津金木